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貧乏観察日誌

世の中は貧乏に厳しいが、それでも足掻いて少しでも心でも生活でも何かしら豊かになろうと試行錯誤するブログ。

学問ではない「ロックのすゝめ」である

猿が読むものと思って書け。

という、1万円札でお馴染みの福沢諭吉大先生のお言葉。
私は貧乏なのでお馴染みといえるほど、紙幣を通じてお会いしたことはないんですけれども。
かの福沢諭吉は、「猿が読むものと思って書け」とおっしゃいました。物を書くという行為において、最も大事であることは「分かりやすさ」であるということ。どんな文章にしろ、伝わらなければ意味が無いのです。

でも、私はどうしても素直に受け止められない。
「猿が読むもの」。福沢諭吉ともあろうお方が、本当に「伝わることの大切さ」において、猿を例に上げるのでしょうか。
確かに「猿でもできる」なんて言い回しがあるように、人間という生き物はどこか猿を自らよりも下に見ている部分があります。
それに倣って、「猿が読むもの」とは一体なんなのか。

考えてもみていただきたい。
猿は果たしてものを読むのだろうか。そして、福沢諭吉はその事を知らなかったのだろうか。
そんなはずはありません。福沢諭吉は猿がものを読まないことを知っていたはずです。だからこそ「猿が読むもの」などと書いたのです。
百歩譲って読もうとしたところで、猿は文字を理解することができないでしょう。文字が理解できるように教育をしたのなら、それは姿は違えどほぼ人間であり、福沢諭吉が唱えるような意味とはかけ離れてしまうはず。
ともなれば、文字を理解できない猿が読むものであると思って書くとはどういう意味なのでしょう。

そう、どうせ読んでも分からんだろう、そういう精神でYOUやっちゃいなYO!ということに他なりません。
福沢諭吉が生きていたその時代、文章と呼ぶものは新聞や本でした。
今の時代はどうでしょう。それらも勿論残っていますが、PCや携帯などの爆発的な普及に伴い、文章の読み方も変わってきたと思います。そして発信することも容易となりました。
ネットの広大な海の中で、自分の文章を発信するというのは、まだ見ぬアメリカ大陸に瓶詰めの手紙を日本海に向けて放流するようなものです。
誰かに届いてる・・・でも誰にも届いていないかもしれない。
だからこそ、自由に自身を表現できる場なのかもしれません。こうして下らないことでも、大層なことでも、自らのアウトプットを残しておけるということはなんと素晴らしいことなのでしょうか。

福沢諭吉の「猿が読むものと思って書け」は、若者たちに「殻に閉じこもって、外聞ばかり気にせずぶつかれ!表現しろ!読む奴はどうせ猿だ!」と、心のハードルを下げるための熱いメッセージだったんです。
現代となってはもう文章を書くだけではないですね。様々な表現方法があるかと思うのです。
自分を表現するというのはなかなか難しいですが、社会人を目指した人、既にやっている人なら面接で散々やってきたはずです。
でもそれは残念ながら虚栄。自分をよく見せるための手法なのです。決して悪くはないですが、それがあなたの全てかと言われれば、そうじゃないですよね。

なかなか表に出せないような暗い部分だって、全部出しきってやっていこうぜ!という福沢諭吉のロックな名言は、時を超えて今もなお、表現者たちを勇気づけているのです。

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