貧乏観察日誌

世の中は貧乏に厳しいが、それでも足掻いて少しでも心でも生活でも何かしら豊かになろうと試行錯誤するブログ。

フリーランスで生きてく、ということに触れる

そう、彼はアーティストであり、実業家であったのだ。

なんのこっちゃですが、そういう話です。

つい先日の出来事で、友人とお酒を楽しんで参りました。
貧乏人が酒なんか飲むんじゃねぇ!と、お叱りを受けてしまいそうですが、まぁたまにはそういう時間も必要ということにしましょうよ。だって飲みに行くのなんか月1回あるかないかの頻度だもん。
軽やかなステップで見事に話が逸れましたが、その友人というのが絵を描いて生計を立てていて、そんな人と話す機会は貴重ですよね。

さて、私は芸術の世界とは限りなく遠いところで生きております。故に絵の良し悪しはあくまで主観的な部分でしか語ることはできません。
故に、何をもってして売れてるかというのも解りません。とはいえ、それ一本で食べていけているのだから、それはもう売れてるでいいと思っているのです。

そんな売れている彼ですが、本人曰く「この世界には実力もセンスも必要ない」とのことでした。
お前、センスの塊やろ…と思わなくもないのですが、大切なのは継続と作品の見せ方とプロモーションであると。

例えば、コピー用紙にサラサラーっと何十秒とかで描いても、それを1年も2年も続ければ、それがその人のカラーになり得る。
継続してこそ、生まれるチャンスがあるかも分かりませんからね。止めてしまえば本当にそれで終わり。恐らく、最も単純で最も難しいことだと思います。
いやでも「コンコルドの誤り」もあるんだし、今までの時間がもったいないからとずるずる続けるのは…という意見もあるでしょう。むしろ私はそっち派なんですが、そもそも勿体無いとか思ってる時点で自分が行ってる事に対しての誇りや意味を見いだせてないわけですから、そんなもん大成する訳がないですよね。
そういう、自分を賭せるものがあるというのは、ひとつのセンスのような気がしますけれどもね。

そして見せ方、プロモーション、これはもうマーケティングな世界に近しいような気もします。
言われたことを「ハイ、ハイ」と言って、左クリックと右クリックで完結するような仕事を毎日のように繰り返し、それだけで必要最低限に給料が貰える私とは一線を画す生き方に思えて仕方ない。
それをミスしてしまえば、誰も助けてなんかくれないわけですよ。今までの経験や勘を働かせて、それでいて一手を打つ…。もしかしたらその一手は次への伏線かもしれない、はたまた次の次の…と、考えて仕事をするだなんて、一介の雇われ超絶下っ端サラリーマンには遠い国のようなお話です。

フリーランスなんて、言葉の響きは凄いかっこいいし、何にも縛られてないし、その名の通り自由で良いなぁ!なんて、お勤め人は思う人が多いでしょう。いやいや、私は少なくとも思ってました。
でも冷静に考えると、会社勤めってその分めっちゃ楽じゃないですか。もう、ほぼ面倒くさいことやってくれてますからね。
確定申告だの、毎月の税金やら保険料やら年金やらの支払いもそうですよ。フォローしてくれる先輩だの上司が近くにいて、責任も取ってくれる。
まぁ、それが一概にすべての会社に当てはまるなどとは申しませんが、少なくとも給料は貰える。来月も貰えるかはさておきですが。

いつ、食えなくなるか分からない。
というリスクは同じではありますが、働き方や考え方は全然違うものでしょう。
『実力』だけでは食っていくことは難しい世界です。それはゴッホが証明してくれてい流ような気がしていて。どんなに評価が高くとも、それが彼の死後であってはゴッホ本人としてはなんの意味も持たないじゃないですか。
死後であっても後世に受け継がれていることが、亡くなった人には分かるはずもなく。であれば、やはり自身の仕事は生きている内に評価されてこそ意味があるのだし、実力を見てもらう前にプロモーションが悪ければ人の目に触れることがない…。
ゴッホの時代よりは大分恵まれているとは思いますけれども、逆に溢れるほど作品を発表する人がいるとなると、そこから頭一つ抜けるのも大変なのではないかと。ホントに素人なの?ってくらい上手い人なんてザラにいますからねぇ。
尖った何かを作品で表現できないなら、もう後は見せ方を学ぶしかありません。『作品を作品たらしめるアーティストならでは』を作るのはきっと難しいと思うのですが、マーケティングやらプロモーションはある程度のノウハウもありますから、そっちを学んでみるのも今はまだ新しい手法なような気もします。

作品と社会と自分を正面から見据えて、ベストな方法を選ぶ…頭良くないとできなさそうです。

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